K君のこと

 お茶の水の象徴とも言える「聖橋」を渡るたびに、高3の時のクラスメート、K君を思い出す。

 1学年12クラスで、各45名前後の生徒がいたから、3年の時のクラス替えで「こんな人いたっけ?」と言うようなことが、事実あった。K君の顔はかろうじて見覚えはあったが、、どういう人かは全く知らなかった。

 今思い出してみると、どうして懇意になったかよくわからない。一つ言えるのは、彼が私に合わせてくれる部分が多かったから、話しやすいクラスメートと感じるようになったのだと思う。

 「皆勤」で一学期を終えた。勉強は嫌いだったが、3年のクラスでは友人に恵まれ、楽しい学生生活を過ごしていた。

 夏休み明け早々、午後の自習時間にこっそり早退し、遊びに出かけたのがサボり癖の始まりだった。バカなりに大学の推薦入学枠に応募し、合格をもらったことも緊張感の欠如につながっていた。二学期が終わってみれば欠席日数14日、赤点1教科、「赤座布団」2教科。それまでの2年半、ほぼ皆勤だったこともあり、「3学期は休まないように…」との注意で済んだのは、お世話になった先生方のおかげだった。

 当時、クラスで唯一「中型バイク」の免許を持っていたK君に、少々憧れていた。小柄だが、陸上経験があり、どことなく線が太い。おしゃべりも明るい。学校をサボった私になぜか付き合ってくれ、私が行ったこともない洒落た店で、クラスの女の子のことを延々としゃべりながら食事をし、帰りはオートバイで家まで送ってくれた。私が気になっていた女の子が入院した時は、一緒に見舞いに付き合ってくれ、帰りは新宿の洋食屋で、私の「初飲酒」にも付き合ってくれた(約30年前のことです。すでに時効と言うことで…(笑))。彼が勧めたカクテルは、今も覚えている。

 志望校を高く設定したせいかどうかは知らないが、彼は浪人の道を選び、お茶の水の有名な予備校へ通った。彼に誘われ、予備校の授業を「潜り」で受けたこともある。メモをとっていた私を、彼は不思議そうに見ていた。自分の大学の授業より、難しかったのは驚きだった。

 授業が終わり、日大だったか明大だったか、学食らしき所で飯を食った。活気ある食堂で、将来のことを何やら話した。もちろん、女の子の話の方が時間は長かった。

 彼は中央線で、私は丸ノ内線で帰宅。聖橋まで一緒に歩き、別れた。

 翌年、「本来の志望校ではなかったが、ここでやることにした」との連絡があった。彼の学校と私の学校はさほど離れていなかったが、居住地は遠く、通学コースは正反対だったこと、また、携帯電話など無かった時代でもあったから、それを機に連絡を取り合うことがなくなってしまった。

 (私が)留年後の4年生の時、休暇中の不慮の事故で彼が亡くなったことを知った。

 地元の県議会議員だったか、秘書の手伝いのようなことを精力的にやっていたらしい。彼のお母さまが自費で出版した本には、選挙カーの横でスーツをばっちり着こなし、笑顔で写った写真が掲載されていた。目指すものを見つけた顔にも見えた。先を急ぐ理由など何もないのは皆が分かっているが、でも、どうして・・・ という気持ちで胸がいっぱいになった。

 あれから25年。車で聖橋を渡り予備校近くを通る。何回も歩いた場所ではないし、新しいビルも増えているから、街角の風景に思い出せるものはない。だが、青春を謳歌している学生や、春を目指す予備校生の中に、若かりし頃のK君と自分の姿を見つけた気がした。

 

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